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細川歯科医院

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細川歯科医院ブログ 2014年9月 2ページ目

てっちゃん

今まで読んでいた本を読み終えてしまったので、またいつものようにまとめ買いをした。
写真.JPGその中でもまず先に目を通したのが「てっちゃん ハンセン病に感動した詩人」

僕は様々な出会いや本を通じ、自分が成長出来ると思われる素晴らしい人を探しているのだが、前にも書いたように神谷美恵子氏は、私が追いかけている中の一人で、その人の生き方や考え方は簡単に真似出来るようなものではない。
真似出来ないからこそ、少しでもその考えに近づきたく、その人が書いた本だけではなくその人が読んだ本をも読むようにし、その人の考えに近づくように努力している。
その神谷美恵子はハンセン病と取り組んだ一人の精神科医なのだが、ハンセン病といっても名前は知っていても私の中で漠然としていた。
そのため数年前、初めて神谷美恵子の名前を知り、その本を読んだあと、一人国立のハンセン病博物館へ行った。

今回まず目を通したその本は、そのハンセン病に罹患した「てっちゃん」という人が綴った誌と写真集である。

ペラペラと眺めただけで思わず涙がこみあげてしまった。

「この人はなんでこんなに前向きな心を持っていられるんだろうか?」

これがこの本を読んだ後の自分がまず思ったことである。
今の世の中は、悲しいことに「心に響く」というものが、作られた物語からが大半である。
作られたものは、所詮その作家の考えの意図するものからなので、そのため小説を僕はあまり好きになれない。
事実から基づく話しの方が、素直に感動し、涙し、喜び悲しむことができ、その話しを通じてさらに多くのことを考える事が出来る。

機会があればこの本を読まれてみてはいかがだろうか?

答えは出なくとも「人間とは何か?」「生きるとは何か?」といった哲学的な考えを感じることが出来ると思う。
僕はこの「てっちゃん」を読んだことで、もう一度神谷氏の本を読み返し、再度ハンセン病資料館に行ってみようと思っている。
写真 (1).JPG

個別研修会

昨日、飯田橋にある東京都立心身障害者口腔保健センターで10時~16時まで個別研修会に参加した。

参加者は約40名で、歯科衛生士の方が歯科医師よりもやや多かった。

内容は障害の定義やそれぞれの疾患特性と歯科における注意点。

実際にこのセンターで働かれておられる先生方の治療場面も動画で流して下さり、対応というものがとても勉強になった。

子どもを含め嫌がる人への治療を踏み込むべきか、経過を追うべきかで悩む時があったが、その対応の判断が理解できた。

この個別研修会は3日間で、来週は行動調整や救急対応といった臨床に近づいた講義。

来週もまた楽しみである。
写真11.JPG

「アドラーを読む」

「アドラーを読む 共同体感覚の諸相」 岸見一郎 アルテ

「中身のない空虚なことを美辞麗句で飾って話す人は今日も多いが、そういう人に対してソクラテスは容赦することなく自分が無知であることを思い知らせた。このようなことをされた人は愉快ではなかっただろうし、そのことのゆえにソクラテスは告発され、ついには死刑になった。『アドラーの生涯』を読むと、アドラーの性格特性として、喧嘩早いということが何度もいわれているが、このことの意味はアドラーが文字通り喧嘩をしたというより、アドラーが論争相手にソクラテスのような鋭い追求をしたことを指しているのかも知れない」

「話された時には、生き生きとして理解できたものが、活字になると明瞭さや正確さを欠いてしまう。話し言葉であれば、アクセントやイントネーション、あるいはジェスチャーや笑いによって補われるだろうが、活字はそのようなものを一切伝えない。聴いている分には理解出来たと思えたものが、文字に記されると意味がよくわからないということがある」

「アドラーは『共感』を重視する。共感ができるためには、相手と自分を同一視し、この人ならこの場合どうするだろうといわば相手の関心に関心を持たなければならない。このような意味で共感することは容易なことではないが、これが共同体感覚の基礎となるものである。アドラーは、『他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる』は、共同体感覚の許容しうる定義であると思えると言っている。殺人者はこのような共感能力としての共同体感覚を欠いている」

「甘やかされた子どもたちが長じて結婚すると、行き詰まってしまう。結婚のパートナーに甘えたいと思う。このような関係はつきあい始めた最初の頃や、結婚一年目では危険なことではないかもしれない。むしろ、そのように依存されることを望む人もあるかもしれない。しかし、二人ともが甘やかされた子どもであれば、どちらも甘やかされたいと思う。これは『どちらも与えられようとはしない何かを期待しながら、お互いの前に立つようなものである』。結婚から何を得ることができるかということを期待するからである。与えることをしないでパートナーに常に要求し期待すれば、そのような期待は必ず失望で終わるだろう。この人たちは対等のパートナーではなく、召使いを求める。彼(女)にとって確実に支えてもらえるのは母親であるから、そのような存在を相手に期待する結婚がどんなものになるか想像するのは難くない。
 結婚は始まりであって、ゴールではない。多くの小説やドラマが結婚するところで終わるが、それはハッピー・エンドどころか、不幸の始まりかもしれないのである。フロムが相手さえいれば恋愛が成就すると考えるのは間違いだと言っているのと同じで、幸い結婚相手が見つかったとしても、結婚してからが難しい。フロムは、人々は愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは、愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えているという。要は、相手さえいれば、恋愛は成就するといわんばかりである。しかし、フロムも言うとおり、愛することは能力なのである。結婚は、とりわけ、パートナーのいずれか、あるいは、いずれもが甘やかされた子どものライフスタイルであれば、結婚が苦難に満ちたものになることは目に見えている。経済的な安定や社会的地位のような、一見、結婚を安全なものにすると思える条件にのみ目が奪われ、いい人にめぐりあえたと思っても、つかの間の幻想でしかない。
 夫婦であっても、相手が自分の期待通りに動いてくれるわけではない。生まれた子どもたちであれば、まして思うように育つことはない。理想的に従順な子どもに育つはずもない。子どものためにどれほどつくしても、少なくとも直接的にはすぐに報われることはないだろうし、そのように期待することが間違いであるともいえる。相手から何を得られるかということを期待する親は子どものことを好きにはなれないだろう」

「現実との接点を失うケースとしてアドラーがあげているのは、自分が人からどう思われているかを気にするというのが一つである。人にどんな印象を与えているか、他の人は自分のことをどう思っているかという問いにかかずらっていると、unsachlichになり、人生との連関を失うとアドラーはいう。このようなことを気にしている人は、自分についての他者の判断ばかりが気にかかる。実際にどうか(Sein)よりもどう思われているか(Schein)を気にすれば容易に現実の接触を失う。
 他の人が自分のことをどう思おうが、自分が信じるところに従って生きたいのである。人がどう思うかを気にして、人に合わせてばかりいれば、自分の人生に一定の方向性を持つことができないばかりか、不信感を持たれることになってしまう。相容れない考えを同時に受け入れようとしたり、互いに敵対する人たちのいずれにも忠誠を誓っていることが発覚するようなことがあるからである。あるいは、どう思われるだろうかということばかり考え、そのことを理由(口実)にして直面する課題を回避してしまうこともあるだろう」

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