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細川歯科医院

住所
〒173-0012
東京都板橋区大和町18-10
田中ビル2階

電話番号
TEL:03-3964-8217
FAX:03-3964-8229

時間・定休日
平日 10:00~13:00  14:30~19:30
土曜  10:00~13:00

休診日:木曜・日曜・祝祭日
(勉強会の都合により変更あり)

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細川歯科医院ブログ 10ページ目

臨床見学

本日は個別研修会の最終日、臨床見学であった。

9時から12時までのたかだか3時間であったが、とても充実した3時間であった。

2日間で勉強したこと、そしてこの3時間で実際に見学して学んだことを通して、今の自分の方向をというか生き方を、少し考えてみたい。

写真 1.JPG

著者校正

先日取材を受けた歯科医師向け定期刊行誌の編集社さんから校正原稿が送られてきた。

自分のとりとめもない考えをまとめるだけでも大変なのに、それを前後上手くつなげて読みやすい文章に変わっていることに、つくづく感心してしまう。

ライターさんや編集を生業とされる方は本当にすごいと思う。

それは僕が今まで歯科の勉強しかしなかったからだと思うが、理系出身で国語が苦手だということも付け加えられるだろう。

高校・大学と全く本を読む事はせず、読み物と言えば試験直前の教科書くらいのものであった。

大学を卒業してからは歯科医師・衛生士向けの定期刊行誌を読むようにはなったが、やはりそれも歯科の勉強である。

30代も半ばになってやっと本を読むようになり、少しはちょっとした言葉の言い回しなどを考えて付け加えられるようにはなったのだが、自分はまだまだ中学生のレベルである。

で、今回の校正に関してはほとんど行わずにお願いする事にした。

確か今年の12月に公の場に出ると思うので、その時はまたこのブログで何かしら書きたいと思う。

個別研修会2回目

昨日は東京都立心身障害者口腔保健センターの個別研修会の2回目を受講。

朝10時~夕方5時までの講義で、休憩は1時間のみ。

今回受けた講義の中で、特に印象に残ったことが二つ。

まず一つ目。
かかりつけ歯科医療機関を選択する理由の第一位は「障害について理解がある」

そして二つ目。
障害の受容支援に即した歯科保健指導のあり方に関する調査
1.障害児の歯科受診で「汚れているとわかっていても、それをあえて指摘されるとつらい」という感想が多かった。
2.障害の受診が不十分な時期の歯科受診では、指導的態度よりも育児支援、障害の受容支援につながるような対応が望ましい。

今、心で悩んでいる人の歯科治療を対応すべく臨床心理学を学んでいるが、やはり人を診るということは、障害についても考える必要があるということ。

今回の連続講習を受けて良かったと思っている。

次回は実際の臨床見学。

学ぶことはたくさんあります。
写真 (4).JPG

智・情・意

夏目漱石 「草枕」 から

・「智」に働けば角がたつ
・「情」に棹(さお)させば流される
・「意」地を通せば旧鬱だ
とかく人の世は住みにくい。

これは
「理詰め理詰めで論理的に正しい方向だけを目指していると人と人との関係がぎくしゃくしてしまう。
かといって、感情に流されてしまうと行方定まらず流されてしまう。
他方、意地を通す(自分の気持ちを通す)ことは大事な事だが、しかしなかなか思うようにはいかない」

という「自分らしさ」をうたったもの。
やはりどの時代も自分の思うようにはいかず、悩まされるものなのですね。
ここ最近は「レジリエンス」という言葉が出てきたりはしますが、結局はいかに物事を柔軟に見て問題に対してどのように受け流すことが出来るか、なのでしょうか。
柔軟にと言いつつも、変なこだわりって人それぞれ持っていて、時と場合によってはそのこだわりがとても大切なこともありますし、幅広く臨機応変に対応と考えた方が良いのかも知れませんね。

放送大学で学んだ一言でした(^^








自分史?

院長紹介を書いているが、大学卒業してからの自分史?となってしまい、なかなか完成には至りません。

まぁ・・・、長くなったとしても読みたくない人は読まないだけですし(苦笑)、興味ある人は読むでしょうから、自分を見つめる意味として、楽しんで書いていこうと思っています。

もう少し時間がかかりそうですので、完成を期待する人はいないと思いますが、しばしお待ち下さいm(__)m

てっちゃん

今まで読んでいた本を読み終えてしまったので、またいつものようにまとめ買いをした。
写真.JPGその中でもまず先に目を通したのが「てっちゃん ハンセン病に感動した詩人」

僕は様々な出会いや本を通じ、自分が成長出来ると思われる素晴らしい人を探しているのだが、前にも書いたように神谷美恵子氏は、私が追いかけている中の一人で、その人の生き方や考え方は簡単に真似出来るようなものではない。
真似出来ないからこそ、少しでもその考えに近づきたく、その人が書いた本だけではなくその人が読んだ本をも読むようにし、その人の考えに近づくように努力している。
その神谷美恵子はハンセン病と取り組んだ一人の精神科医なのだが、ハンセン病といっても名前は知っていても私の中で漠然としていた。
そのため数年前、初めて神谷美恵子の名前を知り、その本を読んだあと、一人国立のハンセン病博物館へ行った。

今回まず目を通したその本は、そのハンセン病に罹患した「てっちゃん」という人が綴った誌と写真集である。

ペラペラと眺めただけで思わず涙がこみあげてしまった。

「この人はなんでこんなに前向きな心を持っていられるんだろうか?」

これがこの本を読んだ後の自分がまず思ったことである。
今の世の中は、悲しいことに「心に響く」というものが、作られた物語からが大半である。
作られたものは、所詮その作家の考えの意図するものからなので、そのため小説を僕はあまり好きになれない。
事実から基づく話しの方が、素直に感動し、涙し、喜び悲しむことができ、その話しを通じてさらに多くのことを考える事が出来る。

機会があればこの本を読まれてみてはいかがだろうか?

答えは出なくとも「人間とは何か?」「生きるとは何か?」といった哲学的な考えを感じることが出来ると思う。
僕はこの「てっちゃん」を読んだことで、もう一度神谷氏の本を読み返し、再度ハンセン病資料館に行ってみようと思っている。
写真 (1).JPG

個別研修会

昨日、飯田橋にある東京都立心身障害者口腔保健センターで10時~16時まで個別研修会に参加した。

参加者は約40名で、歯科衛生士の方が歯科医師よりもやや多かった。

内容は障害の定義やそれぞれの疾患特性と歯科における注意点。

実際にこのセンターで働かれておられる先生方の治療場面も動画で流して下さり、対応というものがとても勉強になった。

子どもを含め嫌がる人への治療を踏み込むべきか、経過を追うべきかで悩む時があったが、その対応の判断が理解できた。

この個別研修会は3日間で、来週は行動調整や救急対応といった臨床に近づいた講義。

来週もまた楽しみである。
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「アドラーを読む」

「アドラーを読む 共同体感覚の諸相」 岸見一郎 アルテ

「中身のない空虚なことを美辞麗句で飾って話す人は今日も多いが、そういう人に対してソクラテスは容赦することなく自分が無知であることを思い知らせた。このようなことをされた人は愉快ではなかっただろうし、そのことのゆえにソクラテスは告発され、ついには死刑になった。『アドラーの生涯』を読むと、アドラーの性格特性として、喧嘩早いということが何度もいわれているが、このことの意味はアドラーが文字通り喧嘩をしたというより、アドラーが論争相手にソクラテスのような鋭い追求をしたことを指しているのかも知れない」

「話された時には、生き生きとして理解できたものが、活字になると明瞭さや正確さを欠いてしまう。話し言葉であれば、アクセントやイントネーション、あるいはジェスチャーや笑いによって補われるだろうが、活字はそのようなものを一切伝えない。聴いている分には理解出来たと思えたものが、文字に記されると意味がよくわからないということがある」

「アドラーは『共感』を重視する。共感ができるためには、相手と自分を同一視し、この人ならこの場合どうするだろうといわば相手の関心に関心を持たなければならない。このような意味で共感することは容易なことではないが、これが共同体感覚の基礎となるものである。アドラーは、『他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる』は、共同体感覚の許容しうる定義であると思えると言っている。殺人者はこのような共感能力としての共同体感覚を欠いている」

「甘やかされた子どもたちが長じて結婚すると、行き詰まってしまう。結婚のパートナーに甘えたいと思う。このような関係はつきあい始めた最初の頃や、結婚一年目では危険なことではないかもしれない。むしろ、そのように依存されることを望む人もあるかもしれない。しかし、二人ともが甘やかされた子どもであれば、どちらも甘やかされたいと思う。これは『どちらも与えられようとはしない何かを期待しながら、お互いの前に立つようなものである』。結婚から何を得ることができるかということを期待するからである。与えることをしないでパートナーに常に要求し期待すれば、そのような期待は必ず失望で終わるだろう。この人たちは対等のパートナーではなく、召使いを求める。彼(女)にとって確実に支えてもらえるのは母親であるから、そのような存在を相手に期待する結婚がどんなものになるか想像するのは難くない。
 結婚は始まりであって、ゴールではない。多くの小説やドラマが結婚するところで終わるが、それはハッピー・エンドどころか、不幸の始まりかもしれないのである。フロムが相手さえいれば恋愛が成就すると考えるのは間違いだと言っているのと同じで、幸い結婚相手が見つかったとしても、結婚してからが難しい。フロムは、人々は愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは、愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えているという。要は、相手さえいれば、恋愛は成就するといわんばかりである。しかし、フロムも言うとおり、愛することは能力なのである。結婚は、とりわけ、パートナーのいずれか、あるいは、いずれもが甘やかされた子どものライフスタイルであれば、結婚が苦難に満ちたものになることは目に見えている。経済的な安定や社会的地位のような、一見、結婚を安全なものにすると思える条件にのみ目が奪われ、いい人にめぐりあえたと思っても、つかの間の幻想でしかない。
 夫婦であっても、相手が自分の期待通りに動いてくれるわけではない。生まれた子どもたちであれば、まして思うように育つことはない。理想的に従順な子どもに育つはずもない。子どものためにどれほどつくしても、少なくとも直接的にはすぐに報われることはないだろうし、そのように期待することが間違いであるともいえる。相手から何を得られるかということを期待する親は子どものことを好きにはなれないだろう」

「現実との接点を失うケースとしてアドラーがあげているのは、自分が人からどう思われているかを気にするというのが一つである。人にどんな印象を与えているか、他の人は自分のことをどう思っているかという問いにかかずらっていると、unsachlichになり、人生との連関を失うとアドラーはいう。このようなことを気にしている人は、自分についての他者の判断ばかりが気にかかる。実際にどうか(Sein)よりもどう思われているか(Schein)を気にすれば容易に現実の接触を失う。
 他の人が自分のことをどう思おうが、自分が信じるところに従って生きたいのである。人がどう思うかを気にして、人に合わせてばかりいれば、自分の人生に一定の方向性を持つことができないばかりか、不信感を持たれることになってしまう。相容れない考えを同時に受け入れようとしたり、互いに敵対する人たちのいずれにも忠誠を誓っていることが発覚するようなことがあるからである。あるいは、どう思われるだろうかということばかり考え、そのことを理由(口実)にして直面する課題を回避してしまうこともあるだろう」

「私が語り伝えたかったこと」

「私が語り伝えたかったこと」 河合隼雄 河出書房新社

「ところが急激に金持ちになって、みんな核家族になった。でも核家族で子どもを育てるなんていう勉強も研究もしていなかった。二〇歳代で急に父親や母親になって、何も習っていない。時代が変わったのだから、家庭の役割が三〇年前に比べてものすごく変化して、大変になっているという自覚がまずいると思うんですよ。自覚がないから、なんでこんなにむずかしいのだろうと腹が立ってくる。でも、自分らがそれを選んだのですから。今は好きなことしたいと。そのかわり昔は、若い者は年寄りの言うことを聞かなければいけませんから、ずっと辛抱していたわけですね。

--みんなが楽な方向に行ってしまった。一番大切な子育ても、面倒で大変なことから逃げてしまって、子どもを甘やかして、たとえばお金で解決してしまおうと。

それが一番悪い方法です。心をもらわないで金をもらうというのは、子どもが悪くなる最悪の方法ですよ。子どもがしてもらいたいのは心のほうなんですよ。昔は金がなかった。それがよかった。子どもが「お母ちゃん、あれ買って」と言ったときに「買えへん」と言えば、これは人間関係ができるわけですよ。「うち、何で買えへんの」と言われたら「お父ちゃん何してはるかわかってるのか、お父ちゃんあれだけ働いてもお給料はこれだけなんよ」と言って人間関係ができる。それをパッとお金を出したらスムーズにいったようだけれど人間関係は切れてしまうんですよね。お金があるのに買わないということは大事なんですよ。昔の親は何をしてやろうかと考えたけれど、今の親の愛情は、何をしないかを考えなければなりません。」

「せっかくこの世に生まれてきて、つかの間の「生」を生きている。その「私」という存在に、出来るだけ生きることの面白さを味わわせてやりたい。やたらに辛抱したり苦しんだりして、生命の長さを十年くらい延ばしてみても、それはほんとうに「生きた」ことになるのだろうか。既に述べたように、健康に関するいろいろな法則は、個人の存在を中心に考える限り、何ともあいまいになってくる。そのような、あいまいなものに縛られて、生きる面白さを制限されたら、生きていることの意味がなくなってくる。そして、そもそも、面白い、楽しい、ということ自体は健康にもいいのだから、こんなにいいことない。
 従って、何に限らず好きなように、好きなことをするのは養生術にかなってくる。ただ難しいのは、人間の身体にはどんなことが起きるかわからないし、限度というものがある。だいたい、好きなことと言うのは限度を忘れさせる。従って、好きなことをする人は、どこかで「体の声」を聞こうとする態度を失ってはならない。養生術のなかに、ときには健康法が必要になってくる。
 しかし、「生」というのは健康も不健康も含んで成立している。あまり忙しい生活をしていると、たまに病気になって、いろんな約束など放ってしまって、家で寝こんでいるのなど、面白いといえば面白い。健康は善で、病気は悪などという単純な考えでは、養生はできない。こんなふうに考えると、人間というのは、なかなかいいときに病気になるものである。私はちょいちょい病気になるが、いつも、うまくできているなぁ、と関心している。なろうと思ってなれるものではない。病気というのも、明らかに「体の声」の顕れである。
 こんなことを考えてくると、養生と現代の医学の関係は、なかなか微妙になるのではなかろうか。医学は時に養生と敵対したりするのではなかろうか。この問題を解決するためには、このあたりのことをよく心得ているホーム・ドクターをもつことが必要であろう。医学のみではなく医療を考える。健康のみでなく養生を考える。このような医者がホーム・ドクターだと思う。好きなように、と偉そうに言っていても、自分の体のことすべてがわかるはずはなく、その点で近代医学の恩恵を受けるべきときは受けるべきだと思う。しかし、そのときに信頼し得るホーム・ドクターをもつことが必要だと思うのである。
 そのような後楯をもちながら、自分の「生」を楽しみ、そのために少しくらい早く死んだとしても、満足ではなかろうか。「なるべくなら、もう少し長生きしたかった」などと言うかも知れないが。」

ブラックボード

今月も書き換えの時期が来ました。
長くても一月に一度のペースで変えていきたいと思っているのですが、気づくと一ヶ月があっという間にすぎていきますdash

今回のテーマはブラキシズム。
2014.8.29.JPG あまり、聞き慣れない言葉かもしれませんが、歯ぎしりや食いしばりなど気づいていないところで症状が出ている方も少なくありません。
朝起きてアゴが疲れている、気づいたら歯を食いしばっている・・など、普段何気なくしていることが、実は歯を痛めているかもしれません。
大切なのはご自分でまず自覚すること、そして意識して治していくことです。

by.  金川




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