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細川歯科医院ブログ 読んだ本

名著

試験が終わり読み始めた本がこれ「病いの語り」
質的研究としての代表的な名著。
この本は一度読んだのだが、先日勉強した中で出てきたのでまた再読することにした。
面白い本は何度読んでも面白い。
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インフォームド・コンセント

「インフォームド・コンセント」 星野一正 丸善ライブラリー

「医師は、現代の医学・医療ならびに医療技術が、究極のものでなく、まだまだ未熟な点も多く、解明しなければと現在努力している問題もある他に、世界中の医学研究者の誰にも問題意識として上がってきていない全く未知のこともたくさんあるに違いないと、現代医学の未熟さ、不確かさと共に、個々の医師が神ならぬ人間であり完璧ではないことを十分に認識して、医師や医学研究者は自信過剰にならず、臨床医学研究者として謙虚でいなければいけないと思います」

「帰国して暫くして私は、日本の社会では、自分の発言に対して責任を負わなければならないという自己規制をかけようとしていないことに気がつきました。何でも好きに言っておいて、都合が悪くなると平気で『私がそんなこと何時言った?』というような顔をして、あとで別の意見を平気で言う人が多いので、驚いたのでした」

「経験の深い医師であればあるほど、そして医学・医療は自分が知らない世界の各地で絶え間なく研究が進められており、それに伴って常に進歩改良されていることを知っていればいるほど、謙虚にならざるをえないと思うに違いありません」

医療の倫理

「医療の倫理」 星野一正 岩波新書

「このように、私は何度も生命にかかわる病の経験をしたことから、経験を重ねるごとによく見えてくることがあることに気がついた。丈夫で重い病気に罹ったことがない人や、病気はしても入院したり手術を受けたことのない人は、病人に対する理解に欠けていることに自分では気づかずに、勝手な発言をして患者を苦しめたり嫌な思いをさせたりしていることが余りにも多いのではなかろうか。また、人間は誰でもあまり変わりはなく、自宅療養の人も、入院患者も、手術後の患者も、生死の境をさまよった後で行き続けている人も、いつ死ぬかもわからない末期患者も、元気な人と何ら変わるところもなく、同じ感情をもち、同じ考え方をするものだという前提で、患者の身になって考える術すら知らずに、ものを言っていることが多すぎはしないか。また自分の病気に対する受け止め方や対処の仕方が患者によって千差万別であることを認識していないのではないだろうか。元気な時には気の強い意見を言っていたのに、その同じ人が病気になった時にはまったく逆の気の弱い意見を言うことすらあることを知っているのであろうか」

「現在でも、日常臨床の現場で使われている治療法は、先人からの経験の蓄積に負うところが甚大である。理論は解明されてはいないが、こういう治療をすれば病気が治る、という経験的治療法が限りなくあるのである。また、多くの患者に効果がある治療法でも全然効果を示さない患者も結構いるというのが、臨床の現場なのである。すべての治療が理屈通りにいけば、臨床はもっと楽になるはずである。学び研究してきた医学的理論と、多くの患者の診療経験の積み重ねから体得した経験的理論の双方に基づく医療を施しても、その効果への期待を裏切られる度に、医師は、治療の難しさを体得し、期待したような効果を示さない患者を何とかして治さなければならないという必死の努力を重ねて、実力のある医師になっていくのである。教科書を何冊まる暗記しても名医になれるものではなく、こういう苦い経験の蓄積によって、医師に裁量を働かせる実力がつくのである」

「元気なときには強いようなことを言っていても、人間は病気になると気が弱くなったり、神経質で不安に襲われるようになったりしがちなものであり、概して人間は病気や死に対して弱いものであるから、告知後の患者の精神的支援体制についての配慮が必要である。病気らしい病気もしたことがなく、もちろん入院したり手術を受けたこともない元気な臨床経験の浅い医師が、「患者の真実を知る権利を無視して告知しないのは間違いであり、告知するのが患者のためである」として、告知後の精神的ショックやそれに基づく心因性反応による身体的な症状に対しての経済支援計画もなく告知して、後は家族に押しつけているようなことを最近よく耳にするが、医師としてあまりにも無責任といわざるをえない」

「患者に接するときに、表情や会話の端々に表れる感情の動きを見逃さずに捕え、容態やその日の気分などをも考え合わせて理解し、いわたりと慈しみの言葉をかけながら気持ちを通じ合わせようとする努力は大切だと思う。しかし、患者の身になって考えようとする努力が行きすぎて、患者の意思を無視して「気晴らしに面白い漫画でも読んだら」と漫画などに興味もない患者に、医師や看護師が自分が興味のあることを勧めるのは、余計なお節介というものである。本当の親切というのは、患者が何を求めているかをよく聴いて、それが可能ならばできるように手助けをするということであろう」

感動する心

今、発達心理学特論を勉強しているが、ここでその放送教材から老年期について少し学んだことを記載。

『老いには、白髪、しわ、しみ、声のはり、曲がった背中など、すぐに見てとれる客観的な老いの部分と

自分自身を年寄りと規定するかどうかという主観的な老いの部分がある。

特に、ものごとに感動する心を失い、何に対しても感じなくなれば、それは老化のしるしであるとされる。

英語の箴言にいわく、「人は感じ方次第で老化するが、感じるということをやめてしまった時、その人は真の老人となる」のである』

人生の半分を折り返すと「自分は何を成したのか?」と考えたりするようになる。

その問いからの答えを見つけることは難しく、だからこそ、それは老年期においての感動を失うということへとつながるのであろう。

そんなに深く考えなくとも、少し見渡すと感動することはいくらでも転がっている。

例えば、、、洗濯物を干すときにハンガーとぴったり数が合ったりする時や

コンビニで買い物ををしたときに「777円」とフィーバーした時などである。

えっ?

こんなことで感動するなんて幸せだって?

だから僕はずっと子どもの心のままでいるのかも知れません(笑)

ただ単に大人になりきれない中年なんですけどね~(苦笑)


「アドラーを読む」

「アドラーを読む 共同体感覚の諸相」 岸見一郎 アルテ

「中身のない空虚なことを美辞麗句で飾って話す人は今日も多いが、そういう人に対してソクラテスは容赦することなく自分が無知であることを思い知らせた。このようなことをされた人は愉快ではなかっただろうし、そのことのゆえにソクラテスは告発され、ついには死刑になった。『アドラーの生涯』を読むと、アドラーの性格特性として、喧嘩早いということが何度もいわれているが、このことの意味はアドラーが文字通り喧嘩をしたというより、アドラーが論争相手にソクラテスのような鋭い追求をしたことを指しているのかも知れない」

「話された時には、生き生きとして理解できたものが、活字になると明瞭さや正確さを欠いてしまう。話し言葉であれば、アクセントやイントネーション、あるいはジェスチャーや笑いによって補われるだろうが、活字はそのようなものを一切伝えない。聴いている分には理解出来たと思えたものが、文字に記されると意味がよくわからないということがある」

「アドラーは『共感』を重視する。共感ができるためには、相手と自分を同一視し、この人ならこの場合どうするだろうといわば相手の関心に関心を持たなければならない。このような意味で共感することは容易なことではないが、これが共同体感覚の基礎となるものである。アドラーは、『他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる』は、共同体感覚の許容しうる定義であると思えると言っている。殺人者はこのような共感能力としての共同体感覚を欠いている」

「甘やかされた子どもたちが長じて結婚すると、行き詰まってしまう。結婚のパートナーに甘えたいと思う。このような関係はつきあい始めた最初の頃や、結婚一年目では危険なことではないかもしれない。むしろ、そのように依存されることを望む人もあるかもしれない。しかし、二人ともが甘やかされた子どもであれば、どちらも甘やかされたいと思う。これは『どちらも与えられようとはしない何かを期待しながら、お互いの前に立つようなものである』。結婚から何を得ることができるかということを期待するからである。与えることをしないでパートナーに常に要求し期待すれば、そのような期待は必ず失望で終わるだろう。この人たちは対等のパートナーではなく、召使いを求める。彼(女)にとって確実に支えてもらえるのは母親であるから、そのような存在を相手に期待する結婚がどんなものになるか想像するのは難くない。
 結婚は始まりであって、ゴールではない。多くの小説やドラマが結婚するところで終わるが、それはハッピー・エンドどころか、不幸の始まりかもしれないのである。フロムが相手さえいれば恋愛が成就すると考えるのは間違いだと言っているのと同じで、幸い結婚相手が見つかったとしても、結婚してからが難しい。フロムは、人々は愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは、愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えているという。要は、相手さえいれば、恋愛は成就するといわんばかりである。しかし、フロムも言うとおり、愛することは能力なのである。結婚は、とりわけ、パートナーのいずれか、あるいは、いずれもが甘やかされた子どものライフスタイルであれば、結婚が苦難に満ちたものになることは目に見えている。経済的な安定や社会的地位のような、一見、結婚を安全なものにすると思える条件にのみ目が奪われ、いい人にめぐりあえたと思っても、つかの間の幻想でしかない。
 夫婦であっても、相手が自分の期待通りに動いてくれるわけではない。生まれた子どもたちであれば、まして思うように育つことはない。理想的に従順な子どもに育つはずもない。子どものためにどれほどつくしても、少なくとも直接的にはすぐに報われることはないだろうし、そのように期待することが間違いであるともいえる。相手から何を得られるかということを期待する親は子どものことを好きにはなれないだろう」

「現実との接点を失うケースとしてアドラーがあげているのは、自分が人からどう思われているかを気にするというのが一つである。人にどんな印象を与えているか、他の人は自分のことをどう思っているかという問いにかかずらっていると、unsachlichになり、人生との連関を失うとアドラーはいう。このようなことを気にしている人は、自分についての他者の判断ばかりが気にかかる。実際にどうか(Sein)よりもどう思われているか(Schein)を気にすれば容易に現実の接触を失う。
 他の人が自分のことをどう思おうが、自分が信じるところに従って生きたいのである。人がどう思うかを気にして、人に合わせてばかりいれば、自分の人生に一定の方向性を持つことができないばかりか、不信感を持たれることになってしまう。相容れない考えを同時に受け入れようとしたり、互いに敵対する人たちのいずれにも忠誠を誓っていることが発覚するようなことがあるからである。あるいは、どう思われるだろうかということばかり考え、そのことを理由(口実)にして直面する課題を回避してしまうこともあるだろう」

「私が語り伝えたかったこと」

「私が語り伝えたかったこと」 河合隼雄 河出書房新社

「ところが急激に金持ちになって、みんな核家族になった。でも核家族で子どもを育てるなんていう勉強も研究もしていなかった。二〇歳代で急に父親や母親になって、何も習っていない。時代が変わったのだから、家庭の役割が三〇年前に比べてものすごく変化して、大変になっているという自覚がまずいると思うんですよ。自覚がないから、なんでこんなにむずかしいのだろうと腹が立ってくる。でも、自分らがそれを選んだのですから。今は好きなことしたいと。そのかわり昔は、若い者は年寄りの言うことを聞かなければいけませんから、ずっと辛抱していたわけですね。

--みんなが楽な方向に行ってしまった。一番大切な子育ても、面倒で大変なことから逃げてしまって、子どもを甘やかして、たとえばお金で解決してしまおうと。

それが一番悪い方法です。心をもらわないで金をもらうというのは、子どもが悪くなる最悪の方法ですよ。子どもがしてもらいたいのは心のほうなんですよ。昔は金がなかった。それがよかった。子どもが「お母ちゃん、あれ買って」と言ったときに「買えへん」と言えば、これは人間関係ができるわけですよ。「うち、何で買えへんの」と言われたら「お父ちゃん何してはるかわかってるのか、お父ちゃんあれだけ働いてもお給料はこれだけなんよ」と言って人間関係ができる。それをパッとお金を出したらスムーズにいったようだけれど人間関係は切れてしまうんですよね。お金があるのに買わないということは大事なんですよ。昔の親は何をしてやろうかと考えたけれど、今の親の愛情は、何をしないかを考えなければなりません。」

「せっかくこの世に生まれてきて、つかの間の「生」を生きている。その「私」という存在に、出来るだけ生きることの面白さを味わわせてやりたい。やたらに辛抱したり苦しんだりして、生命の長さを十年くらい延ばしてみても、それはほんとうに「生きた」ことになるのだろうか。既に述べたように、健康に関するいろいろな法則は、個人の存在を中心に考える限り、何ともあいまいになってくる。そのような、あいまいなものに縛られて、生きる面白さを制限されたら、生きていることの意味がなくなってくる。そして、そもそも、面白い、楽しい、ということ自体は健康にもいいのだから、こんなにいいことない。
 従って、何に限らず好きなように、好きなことをするのは養生術にかなってくる。ただ難しいのは、人間の身体にはどんなことが起きるかわからないし、限度というものがある。だいたい、好きなことと言うのは限度を忘れさせる。従って、好きなことをする人は、どこかで「体の声」を聞こうとする態度を失ってはならない。養生術のなかに、ときには健康法が必要になってくる。
 しかし、「生」というのは健康も不健康も含んで成立している。あまり忙しい生活をしていると、たまに病気になって、いろんな約束など放ってしまって、家で寝こんでいるのなど、面白いといえば面白い。健康は善で、病気は悪などという単純な考えでは、養生はできない。こんなふうに考えると、人間というのは、なかなかいいときに病気になるものである。私はちょいちょい病気になるが、いつも、うまくできているなぁ、と関心している。なろうと思ってなれるものではない。病気というのも、明らかに「体の声」の顕れである。
 こんなことを考えてくると、養生と現代の医学の関係は、なかなか微妙になるのではなかろうか。医学は時に養生と敵対したりするのではなかろうか。この問題を解決するためには、このあたりのことをよく心得ているホーム・ドクターをもつことが必要であろう。医学のみではなく医療を考える。健康のみでなく養生を考える。このような医者がホーム・ドクターだと思う。好きなように、と偉そうに言っていても、自分の体のことすべてがわかるはずはなく、その点で近代医学の恩恵を受けるべきときは受けるべきだと思う。しかし、そのときに信頼し得るホーム・ドクターをもつことが必要だと思うのである。
 そのような後楯をもちながら、自分の「生」を楽しみ、そのために少しくらい早く死んだとしても、満足ではなかろうか。「なるべくなら、もう少し長生きしたかった」などと言うかも知れないが。」

「いのちのよろこび」

「いのちのよろこび」 神谷美恵子 日本図書センター

「万人がうらやむような高い地位にのぼっても、ありあまる富を所有しても、スター的存在になれるほどの美貌や才能を持っても、本人の心の中で生きるよろこびが感じられなければ、生きがいを持っているとはいえないわけです。

現に私は、右に言ったような、はれやかなものを全部持っていながら、生きがいがなくて、ノイローゼになった患者さんを何年かにわたって診療したことがあります。

ときどき、他人の注目になりたいという欲求の強い人がありますけれども、これもまた、たとえみたされても、“他人の注目”というものはまことにたよりにならない、変わりやすいもので、この上に立った生きがいも長続きしないようです。

こうみてくると、生きがいある生涯を送るためには、何かしら生きがいを感じやすい心を育て、生きがいの感じられるような生き方をする必要があるのではないでしょうか、と思われてきます。

もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じられるようにはできていないので、一生のうち何べんか、”ああ、生きていて良かったなぁ”と感じられるような瞬間があればありがたいとすべきでしょう。

たえず生きがいを感じて喜んでいるというのは、むしろふつうでなのではないかと考えられます。

さて、こういうことを承知のうえで、生きがいを感じやすい心とはどんな心かと考えてみますと、それは結局、感受性のこまやかな、謙虚な心、何よりも、“感謝を知る心”だろうと思われます。

欲深い、勝気な心の正反対です。

感謝を知るというのは、何か特に他人が自分によくしてくれた場合だけでなく、自分の生というものを深くみつめて、どれだけの要素がかさなりあって自分の存在が可能になったのかを思い、大自然にむかい、ありがとう、と思うことをいっているのです。

不幸な境遇のある人にそれを求めるのは無理ではないか、と思う方もあるでしょう。

けれども私は、慢性の厄介な病気にかかり、一生家族と別れて暮らさなければならない人や、目の不自由な人などにも、こういう人のあることを知っています。

私は宗教の形式はあまり好きではありませんが、真の宗教心、かたちにとらわれない宗教心とは、こうしたものではないかと思っています。

皆さんもこういう自由な、本質的な宗教心というものについて少し考えてみて下さい。

それは人間の心が持っている、最もたいせつなはたらきだと思うのです。」

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