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細川歯科医院ブログ 2014年9月 3ページ目

「アドラーを読む」

「アドラーを読む 共同体感覚の諸相」 岸見一郎 アルテ

「中身のない空虚なことを美辞麗句で飾って話す人は今日も多いが、そういう人に対してソクラテスは容赦することなく自分が無知であることを思い知らせた。このようなことをされた人は愉快ではなかっただろうし、そのことのゆえにソクラテスは告発され、ついには死刑になった。『アドラーの生涯』を読むと、アドラーの性格特性として、喧嘩早いということが何度もいわれているが、このことの意味はアドラーが文字通り喧嘩をしたというより、アドラーが論争相手にソクラテスのような鋭い追求をしたことを指しているのかも知れない」

「話された時には、生き生きとして理解できたものが、活字になると明瞭さや正確さを欠いてしまう。話し言葉であれば、アクセントやイントネーション、あるいはジェスチャーや笑いによって補われるだろうが、活字はそのようなものを一切伝えない。聴いている分には理解出来たと思えたものが、文字に記されると意味がよくわからないということがある」

「アドラーは『共感』を重視する。共感ができるためには、相手と自分を同一視し、この人ならこの場合どうするだろうといわば相手の関心に関心を持たなければならない。このような意味で共感することは容易なことではないが、これが共同体感覚の基礎となるものである。アドラーは、『他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる』は、共同体感覚の許容しうる定義であると思えると言っている。殺人者はこのような共感能力としての共同体感覚を欠いている」

「甘やかされた子どもたちが長じて結婚すると、行き詰まってしまう。結婚のパートナーに甘えたいと思う。このような関係はつきあい始めた最初の頃や、結婚一年目では危険なことではないかもしれない。むしろ、そのように依存されることを望む人もあるかもしれない。しかし、二人ともが甘やかされた子どもであれば、どちらも甘やかされたいと思う。これは『どちらも与えられようとはしない何かを期待しながら、お互いの前に立つようなものである』。結婚から何を得ることができるかということを期待するからである。与えることをしないでパートナーに常に要求し期待すれば、そのような期待は必ず失望で終わるだろう。この人たちは対等のパートナーではなく、召使いを求める。彼(女)にとって確実に支えてもらえるのは母親であるから、そのような存在を相手に期待する結婚がどんなものになるか想像するのは難くない。
 結婚は始まりであって、ゴールではない。多くの小説やドラマが結婚するところで終わるが、それはハッピー・エンドどころか、不幸の始まりかもしれないのである。フロムが相手さえいれば恋愛が成就すると考えるのは間違いだと言っているのと同じで、幸い結婚相手が見つかったとしても、結婚してからが難しい。フロムは、人々は愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは、愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えているという。要は、相手さえいれば、恋愛は成就するといわんばかりである。しかし、フロムも言うとおり、愛することは能力なのである。結婚は、とりわけ、パートナーのいずれか、あるいは、いずれもが甘やかされた子どものライフスタイルであれば、結婚が苦難に満ちたものになることは目に見えている。経済的な安定や社会的地位のような、一見、結婚を安全なものにすると思える条件にのみ目が奪われ、いい人にめぐりあえたと思っても、つかの間の幻想でしかない。
 夫婦であっても、相手が自分の期待通りに動いてくれるわけではない。生まれた子どもたちであれば、まして思うように育つことはない。理想的に従順な子どもに育つはずもない。子どものためにどれほどつくしても、少なくとも直接的にはすぐに報われることはないだろうし、そのように期待することが間違いであるともいえる。相手から何を得られるかということを期待する親は子どものことを好きにはなれないだろう」

「現実との接点を失うケースとしてアドラーがあげているのは、自分が人からどう思われているかを気にするというのが一つである。人にどんな印象を与えているか、他の人は自分のことをどう思っているかという問いにかかずらっていると、unsachlichになり、人生との連関を失うとアドラーはいう。このようなことを気にしている人は、自分についての他者の判断ばかりが気にかかる。実際にどうか(Sein)よりもどう思われているか(Schein)を気にすれば容易に現実の接触を失う。
 他の人が自分のことをどう思おうが、自分が信じるところに従って生きたいのである。人がどう思うかを気にして、人に合わせてばかりいれば、自分の人生に一定の方向性を持つことができないばかりか、不信感を持たれることになってしまう。相容れない考えを同時に受け入れようとしたり、互いに敵対する人たちのいずれにも忠誠を誓っていることが発覚するようなことがあるからである。あるいは、どう思われるだろうかということばかり考え、そのことを理由(口実)にして直面する課題を回避してしまうこともあるだろう」

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